2016年7月18日 (月)

高麗郡1300年と高松塚

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先々月、埼玉県日高市で行われた「高麗郡(こまぐん)建郡1300年記念祭」を見に行ってきました。

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 5月にしては、日蔭を捜しまわってゴマソフトを食べる暑い陽射しの中、

お祝いの祭りパレードは、いかにも朝鮮半島のゆかりを感じさせる衣装で溢れていました。

挨拶に立つ日高市長の後ろでカラスの帽子をかぶる人は、友好都市、韓国烏山市の市長。

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 韓ドラは見たことがなかったので、初めて見る女性の衣装色彩は新鮮で目を射すほどの美しさ。

でもどこかで見たことのある感じ・・・ 

そうだ、先年、奈良県飛鳥の地に古代豪族蘇我氏の跡を訪ねたときに見た高松塚の飛鳥美人。

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                                                                  ( 高松塚古墳壁画 女子群像 )

日高市の女性は日本風の幅広帯、革のポシェットや手に持つのは携帯ですが、他は飛鳥美人に良く似ていますなあ。

 はるか昔、高松塚の主ももしかして高麗人(こまびと)と関わっていたのかも・・・。

そして高松塚の築造より数年から十数年後、

ちょうど今年から数えて1300年前の霊亀2年5月、飛鳥の朝廷は関東各地に住む高句麗からの渡来人1799人をこの武蔵の地に遷して高麗郡を建郡。

 きっと当時、飛鳥にあった都もこんなカラフルな色に満ちていたのかもしれませんね。

2016年7月 1日 (金)

夏越の祓え

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 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける       藤原家隆

百人一首に詠まれたのは京都の上賀茂神社。

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 早いものでもう半年が終わって、水無月夏越の祓。

ここは千葉県香取市の香取神宮。

楢の小川・御手洗川といった上賀茂社の上品な風景はありませんが、そのかわり近くには悠々たる大河、坂東太郎が・・・。

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 ♪ 利根の川風袂に入れて、 

    佐原囃子が聞こえてくらぁ・・・・・と、玉川勝太郎や三波春夫の天保水滸伝の世界が、、、。

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                                      利根川 

 大変だった今年の前半、

人生は思いがけない時に、思いがけないことが起きるもの。

 総ての厄はもうスッパリ大利根の水の流れから鹿島の海に捨ててしまおうと、

香取神宮の茅の輪をくぐってきました。

2016年6月14日 (火)

怨念

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  よしや君 昔の玉のゆかとても かからん後は 何にかはせん       西行

 保元の乱で敗れた崇徳上皇は、都に度々赦しを乞うもいれられず、讃岐の配所で無念、怨みを吞んで亡くなります。

数年の後、白峰の跡を弔い詣でた西行の慰めの一首に崇徳上皇の霊は感動して、御廟はしきりに鳴動したそうです

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                                  西伊豆

 それにしても東京の大合唱・・・・・・・・・・・・・・・・ 怨念の残らないように・・・・・・・

2016年5月16日 (月)

かざしぐさ

 五月十五日の賀茂神社の葵祭りでは、ふたば葵の葉が挿頭(かざし)に使われます。

ところがその祭りに肝腎な葵が少なくなってきて、京都は困っているんだとか。

以前、飛騨高山を旅行した時、高山陣屋の中庭に自生するふたば葵を案内人が自慢そうに説明していたのを思い出しました。

今、家では鉢植えの卯の花が小粒で可憐な花を開いてます。

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   卯の花をかざしに関の晴着かな       曾良

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 奥州を目指し、心もとなき日かずを重ねてきた芭蕉と曾良。

白河の関でようやく旅心も定まり、いよいよみちのくへ入る挨拶として卯の花を挿頭にしたのでしょう。

2016年5月 4日 (水)

伴大納言展

 大好きな伴大納言絵巻。

 平安時代前期、貞観の大地震が起きる数年前、大内裏の応天門が何者かによって放火され、焼失する大事件。

犯人とされた大納言・伴善男をめぐる政治スキャンダル事件で、時を経て捕えられた伴善男は、罪一等を減ぜられて伊豆国に遠流される。

しかし、陰謀渦巻く政治闘争事件はたいがい裏で操る黒幕がいて、いつの時代でもほんにホントは分からない。

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 絵巻では、伴善男家の出納係の子と隣の右兵衛舎人の子による路上の喧嘩。

やはり昔から子供の喧嘩には親が出ていくようで、

伴善男の権力を笠に着た出納係の横暴さに頭にきた舎人は、自分が応天門炎上の夜に目撃した伴善男父子の怪しい行動を路上で言いふらしてしまう。噂は広がり、ついに伴善男の企てが露見するという意外な展開に。

明快な筋立で一件解決となるが、事件の真相はどこか闇に包まれている感じ。

絵巻に登場する人物も謎が多く、解釈はいろいろ。 

不思議、謎解きミステリーのような物語絵巻。

 皇居前の出光美術館開館50周年記念・国宝「伴大納言絵巻」の公開で、10年ぶりの開催。

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10年前の公開は、上中下三巻一緒の展示。肩越しから見る程の大変な混みようで、じっくり見ていられませんでした・・・。

それが今回は期間を三つに分けて、今日は上巻のみのせいか意外に閑散、のんびり見学。

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静かな館内には欧米系の男女もおおぜいで、それも研究者なのか真剣な眼差しで絵を見ています。



 そのあとは、ロビーでサービスのお茶を飲みながら目の前の皇居を、

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もちろん今の皇居には応天門はありませんが、お濠と緑を眺めて、

のんびり、ほっこりした時間がながれました。

2016年4月25日 (月)

六代の墓

 さる程に六代御前は、三位禅師として、高雄におこなひすましておはしけるを、「さるひとの子なり、さる人の弟子なり。頭をばそッたりとも、心をばよもそらじ」とて、鎌倉殿より頻に申されければ、安判官資兼に仰せて、召し捕ッて関東へぞ下されける。駿河国住人岡辺権守泰綱に仰せて、田越川にて切られてンげり。十二の歳より、卅にあまるまでたもちけるは、ひとへに長谷の観音の御利生とぞ聞こえし。それよりしてこそ、平家の子孫は、ながくたえにけれ。    平家物語・六代被斬1


 ちょっとの時間ですが六代の墓に手を合わせてきました。鎌倉にも近く、逗子を流れる田越川のすぐそば、下の駐車場から2、30段の石段をのぼると、それは墓と言うより供養塚の様。

ここに案内してくれた義弟は、昔、この近くの逗子開成高校へ通うためすぐ脇の道を通っていたそうです。

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 前と後ろを大きなケヤキに守られた小さな墓の主は六代。

六代の父平維盛は平家嫡流でありながら、富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いからほうほうの体で逃げ帰ってくる不甲斐ない大将軍。戦略や勇猛果敢さにには欠けるものの、しかし世が世であれば光源氏にもなぞらえられるほど優しく美しい公達。、また平清盛は六代の曽祖父にあたります。

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 平家の残党が次々と殺されていくなか、高雄神護寺の僧文覚に救われた幼い六代は、彼の弟子となり、文覚に対する旧恩から頼朝の異例の赦しを受けて年月が経ちます。

しかし、やがて頼朝が死に、また頼みとする文覚も失脚して流罪になると、ふたつの後ろ盾を失った六代は捕らえられ、あっけなく首を刎ねられてしまう。

一時は、平家にあらずンばと、世の栄華を極めた伊勢平氏も、平正盛から数えて六代目で哀れその血脈は絶えてしまった。



 墓所に覆いかかり、薄緑の葉を吹き出した巨大な2本のケヤキが、どこか頼朝と文覚に思えてきました。

2015年12月12日 (土)

七輪

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  ごを焚いて手拭あぶる寒さ哉                   松尾芭蕉

(“ご”は三河地方の言葉で、松の落ち葉)

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                                (弥彦 もみじ谷)

 白居易は林間に紅葉を焚いて酒を煖め、方や芭蕉は三河の宿で松葉を焚いて濡れ手拭を焙る。

 先日、娘から、バーベキューをするために七輪を買ったので火の起こし方を教えてほしい、と思いがけない電話・・・

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 指先ひとつで物事が片付くご時世、焚きつけから順番に火を起こすことなど、今は貴重な技術伝承者??

2015年11月18日 (水)

寄席の出囃子

 何十年ぶりに浅草の寄席に行ってきました。

六区の浅草演芸ホールは満員の盛況。

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 プログラムには、古今亭圓菊三回忌追善興行と銘打って、若手に混じり古参も頑張っている。 

 名人だった八代目桂文楽が死んで長いこと空き名跡だったのを、いつのまにかぺヤングソース焼きそばが九代目の大看板に座っていて驚いた。

その見慣れた四角い顔の桂文楽の出し物は「替り目」。亭主関白でいつも威張っているがホントは奥さんにホの字の亭主。ケッコウ上手いョ。

 方や、三遊亭圓歌は少し声が細くなったが、得意の「中沢家の人々」で会場を沸かせる。客を笑わせるツボをしっかり心得てやがる。

「中沢家・・」も、南無妙法蓮華経を唱える圓歌がもう85歳、恐山だった世界も今ではすっかり人情話になった感じだ。

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 追善されてる古今亭圓菊は、昔、脳溢血で身体の不自由になった師匠の五代目志ん生をおんぶして銭湯に連れて行ったり、

よごした猿股を洗ったりと、それこそ沢山の面倒をみたまことに忠義感心な弟子だった。



 それが年月経巡って、今日は舞台で圓菊の思い出の座談が行われ、その舞台を金原亭馬生の孫で、金原亭小駒という若者が

座布団持ちの下役で立ちまわっています。

馬生の孫と言えば古今亭志ん生のひ孫でしょ。

紹介されたこの小駒、どこか顔の大判なところがかつての大きな禿頭、大名人古今亭志ん生の面立ちを宿している気がして、ちょっと嬉しかったナ。

2015年11月 6日 (金)

東雲亭は

 少し前、高麗神社を訪ねた際、飯能の天覧山下のバス停で降りて、近くの飯能市郷土館に入ってみました。

中央のホールには、ハッピに鉢巻きの筏師が長い棹を操る人形がドンと据えられている。

この筏流しの入間川が、途中高麗川と合流し川越で荒川に、やがて隅田川へとつながります。

原市場の地名とともに、昔ここ飯能が江戸への杉や桧の木材供給地であったことがわかります。

興味深い古い写真も沢山。

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                             (写真 津森雅昭氏)

 その中で特に目を引いた写真が一枚、入間川遊水場の川遊び。

この写真は、脇に添えられた説明書きによると昭和10年代のものらしい。

よく見ると、屋根の「川の家」の看板の一番右に縦書きで小さく、東雲亭と書かれているのが判り、オドロきます。

 やや、、、さては坂口安吾が檀一雄と高麗神社に行く折、ヒル飯を食べたトコロ?・・・。

サッと出される酒肴にノロマなところがなく、酒飲みの気持ちが分かると褒めた「天覧山麓、温泉旅館、東雲亭」かと思いましたョ。

すると一緒に廻る同行者が、この堰に似た所ならすぐ近くにあると云うので、時間がない中も、急いで見に向かう。

郷土館を出て、入間川まで真っすぐ坂道を下ったところ。

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入間川の両側には沢山の茶屋会席が張り出している。

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 今の名前は名栗川亭になっていますが、どうも場所は古い写真と同じように見えます。

てっきりこれが以前の東雲亭かと早合点。しかし安吾は東雲亭に川の事など少しも書いていないのがどうもおかしい。

帰ってきて調べてみると、やはり東雲亭は天覧山の麓で、昭和天皇も泊まったたいへん由緒のある大きな旅館でしたが、残念ながら今はもうなくなっているそうです。

 時代が移って筏流しもなくなり、入間川には遊覧用に堰が作られたのでしょう。

古い写真の川の家は、もしかしたらその当時の東雲亭の持ち物で、別館だったかも知れないと思いましたね。

2015年10月31日 (土)

萩の上露

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  紫の上

  おくと見る程ぞはかなきともすれば風にみだるる萩の上露

  源氏

  ややもせば消えをあらそふ露の世におくれ先だつほど経ずもがな

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  明石の中宮

  秋風にしばしとまらぬ露の世をたれか草葉のうへとのみ見ん

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 源氏物語 ー 御法 ー

 病はいよいよ重く、すっかり痩せ細ってしまった紫の上ですが、かえって、この上なく上品で優雅、可憐で美しい。

身にしむばかりの秋風が吹き出した夕暮れ、庭を眺めようと、起きて脇息に寄りかかる。

このまま千年も生きるすべがあればと思う源氏の気持ちも、叶わぬ願い・・・、

苦しくなり、几帳を引き寄せて臥せた紫の上の様子は、いつもよりもずっと頼りなげで・・・

見守る源氏と明石の中宮の悲しみのうち、やがて紫の上は露のように亡くなります・・・

萩の上露のように、一緒に消えたいと思う光源氏の、五十一歳の秋でした。

 すこしずつ秋も深まってきて、やがて冬の仕度を始めなくては、、、です。

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